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ひとに言えぬ秘密の風俗

SM風俗の定義を考える

我々が生活している日常には、よく考えると『その名前、本質と違うじゃん!なんでそんな名前なんだよ?』みたいなネーミングのものが肩書きから商品名まで、たくさんあります。これによって、生命保険はとてもスムーズに普及するようになったと言います面白いことに、一度こうしたフレームが人々の頭(心)の中に充分固定した後では、「死亡保険」と言ってもさほど悪い効果は起きなくなります。近年「死亡保険」と言う言葉が再び使われ出してきていますが、問題がないのは、そのためです。
私は近年、トレード(投資)で生活費を稼いでいますが、勉強しない投資家がやっていることは、はっきりと「ギャンブル」以外のなにものでもありません(正しい投資はギャンブルとは全く違います。あくまでも楽して儲けられると思う初心者の態度がギャンブル的だという話です)。はっきり正確に呼ぶなら、あれは『投資』ではなく「ギャンブル」『賭け』と呼ぶべきです。しかし、それを「ギャンブル」というリスキーかつネガティブな単語から、『投資』と呼び変えることによって、人はあっさりと馴されてしまい、参加者が爆発的に増えます。今は生命保険が当たり前にあるので、こう言っても、みなさん、なんのことか分からないかもしれません。
だから、その繋明期においては『死』の保険という名称で定義をされそれは何故かといえ
こんな風に、言葉による定義というのは、それひとつで、人間の行動を覆すほど重大なことなのです。だからこそ、私は「プレイ」という単語にこだわっているのです。しかし、これ以外にあまりすんなり一般に通る単語が考えつきませんでした。そういう理由から、なるべく意図的に「プレイ」という単語を排斥し『行為』という呼び方をしていました。

ですが、いまいち文章の流れがよくないので、『行為』を指して「プレイ」という単語を使いますが、以上のように、あまり好ましくない言葉である、ということは、あらかじめ御了承ください。逆説ですさて、話がずれました、ところが、です。今まで、要するにSMという定義がマイナスだから、うしろめたい、などということを言ってきましたが、その反面、SMという単語は、マイナスイメージを持つからこそ、良い、という部分があるので、ムツカシイですね、やんなっちゃいます。我々ぐらいの年代の人間は、SMという単語だけで『淫廃』というカンジがします。たぶん、我々の世代がSMに関して持つ一番びったりくる単語は『淫廃』なのですが、若い世代は、あまりそうではないと思います。まあ、江戸川乱歩とか団鬼六とか、あっち系の和風の暗い陰湿なイメージですね。

昔の日本のSMイメージというのは、非常に『淫摩』という単語がびったりくる、じめじめとして陰湿で薄暗いようなイメージでした。その淫廃なカンジ、背徳的な響き、マイナスイメージがあるからこそ、惹かれる、という部分があります。ここ十数年ぐらいの、インターネットによる性の氾濫は恐ろしいものがあります。少し前まで、健全な青少年は、うらぶれて不細工なオバサンが出ているモザイクのかかったアダルトビデオを見るのにも苦労していたのに、今では、スマートフォンやPCで、無修正の動画を見放題です。
これなどは決して良いとは言えません。いや、そりゃ男ですからね、スケベなものが簡単に見られるのは嬉しいんですが、その反面、性というのは隠すもの、なるべく触れないもの、であったからこそ、それに触れたり、実際にするときの興奮が増すのです。

簡単にいつでも誰でも裸体が見られて、いつでも誰とでもセックスできる環境が普通にあるなら、そんなにセックスしたくはなくなるでしょう。昔は、ちょっとしたヌード写真でも興奮したのに、ネットに無修正が溢れてる今となっては、ヌード写真見たってちっとも興奮しません。結局、若い世代に「セックスレス」が非常に増えていると言われる一因は、そこにあると思います。
むろん、ネットに絡む物事など、色々他にも娯楽がたくさんあって、時間がない、という要因もありますが、それだって、要するに、セックスが「重くない」からそうなっているわけです。「重くない」というのは、ネットを見たり、ネットで会話をしたり、ゲームをしたりすることをやめてまでするほど、セックスに重きが置かれない、重要性が高くない、ということです。

我々ぐらいの世代は、「SM=淫摩」ってのが若い頃から刷り込まれてますから、今になって、どんなに性が氾濫して見慣れても、根底に刷り込まれたものは変わらず残ってるのですが、今の若いやつは、たぶんそーいうのは無いでしょう。それは、とても可哀想なことだと思います。性というのは、タブーなほど、その感動が強いものですから、それが味わえないのは、とても悲しいことです。話が横漏れしましたが、SMというフレームは、必ずしも悪い点ばかりではない、ということです。
しかし、こうSMサイトが乱立する時代では、SMのもつ淫廃なイメージも、あんまり無くなっていくのでしょうね、というか、既にだいぶ無くなってますね(ということを書いたのが、サイトを立ち上げた十数年前なのですが、今では、もう全くそんなイメージのサイトは存在してないですね)。

SMとは何か

SMという単語の意味これから「SMとは何か」なんて話をしていくわけですが、その前に、「SMとは何か」って話を、一応しておきましょう、って意味わかりませんね、すいません。

名古屋の風俗で学んだこと

前者の「SMとは何か」ってのは、哲学的、というと言い過ぎですが、観念的な意味です。後者の「SMとは何か」とは、いわゆる、私が名古屋で経験して定義した意味です。もっというと、私が若かりし頃に名古屋風俗の情報を集めていた時に、その概念が降りてきたのです。前者の話をする前に、ここでは基礎知識として後者の話をしておきましょう。

まあ、そんなの知らなくてもいいんですが、知っておいたほうが、なにかと物事が正しく捉えられるようになります。あと、酒の席で自慢できます、恥ずかしくてできませんか?すいません。SMというのは、『サディズム「Sadism」アンドマゾヒズム「Masochism」』の略です。サディズムというのは、日本語では「加虐階好」などと訳されます。略して『サド』です。
マゾヒズムは、日本語では「被虐晴好」などと訳され、略して『マゾ』です。昔は「サドマゾ」という言い方をよくしましたが、最近では、ほとんど言われることはなく、「SM」という言い方が定着しています。そして『サド』や『マゾ』ではなく、単に『S』と『M』ということが多いようです。『S』と『M』という言い方がポピュラーになったのは、せいぜい、ここ十数年ぐらいのことです。この言葉が一気に普及したのは、『サド』や『マゾ』という単語が、どこかかなりヘビーに変態的な印象を与えるのに対し、『S』や『M』というのは、もっとライトな感覚を与えるということが、大きな理由になったようです。
サディズムは、その名の通り、対象に対して、一方的に何かを虐待することを好む性質を指し、マゾヒズムは、虐待されることに喜びを見いだす性質を指します。で、サディズムを持つ人間を「サディスト」と言い、マゾヒズムをもつ人間を「マゾヒスト」と言います。

我々が言うSMは、お互いの合意の上に成り立つ前提ですが、純粋なサドやマンゾは、対象と合意があるかどうかは関係ありません。ただし、合意を持たない一方的な虐待は、DV「ドメスティック·バイオレンス」など犯罪行為も発生させますし、最悪の場合、傷害だけでは済まず、殺害に至ることもあるので、分類は難しいところです。極端な場合、精神医学では性的倒錯「パラフィリア」と呼ばれ、一種の精神障害に分類されることもありますが、どの程度のものを精神障害に分類するか、あるいはしないか、は議論のあるところです。また、ここで重要なのは、単に虐待する側だけが異常とは限らないということです。被虐性向を持つ人間は、同様に異常者たりえますし、事実上、支配者たるとも言えます。よく、文学には、極端な被虐性向を持つ女性が、一見すると「される側」でありながら、その淫蕩な性質によって虐待を与える側の欲求をコントロールし、次第に過激なプレイにのめりこませていくようなものが見られます。
これなどは、事実上、被虐性向を持つ側が、サディストを支配しているのです。心理学的には、SとMは対極的なもの、要するに、両極端に位置する相反するものではないと考える説もあり、しばしば、サディストがマゾヒズムを好み、またその反対もあり、表裏一体であるケースが多くあります。ただ、個人的な話を言わせて貰うと、私はどちらかというと、表向きの性格は温和で大人しく、Mっぽいと思われることもあるようですが、本当に全くMっ気がありません。何をしてみても、Mっぽいことでは全く感じません。なので、SとMが実は表裏一体にある、という心理学説には、個人的にはいまいち信獲性を感じず、それはある種一方の性質が弱い人のみに当てはまるのではないかと思っています。

後述する「サド侯爵」は、投獄されているときも、面会に来た妻に『(自分の)アナルに入れるディルドを持って来い』なんて馬鹿な要求などをしたそうなので、Mっ気もあったようです。
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日本のSM欧米では、現在もSMといえば、身体損傷を含む相当にハードなプレイを指しますが、日本では平均的に欧米ほどハードではなく、縄による縛りなど、独自のS日本におけるSMは、日本人の性質や、日本独特の陰湿な雰囲気にマッチし、多くの文学に描かれることで、次第に独自化していったと言えるでしょう。海外の『拘束』が、いわゆる「拘束具」やボンデージ衣装などで行われるのが主流に対して、日本では、『縛る』ことが主体になってきた感があります。日本でいわゆる『緊縛』が生まれたのは、農業などで頻繁に『麻縄』を使っていたため、縄が身近にあったからだと考えられ、ロウソクも同様に考えられます。
たとえば有名な「亀甲縛り」ですが、あれは元々、米俵を縛るときに緩まないように考え出された縛り方だそうです。また、同時に、日本家屋には『鳴居』や『梁』があったため、縄で吊すのに元から向いていた構造であったことも、その傾向を強めたと考えられます。M文化が発達してきました。語源「サディズム」の語源は、今述べた、18世紀末から19世紀初頭のフランス貴族マルキ·ド·サド(サド侯爵)の名から来ています。彼は有名な小説「悪徳の栄え」や「ソドム百二十日」などを執筆しましたが、それらはタブーとされていたSM行為を克明に描いたことで、19世紀には禁書扱いされていて、ほとんど日の目を見ることはありませんでした。
日本では、我々の世代にはお馴染みの文学者、渋沢龍彦による紹介により、サドは性的に異常性欲の持ち主だったらしく、性的な罪(強姦や肥門性交。当時はアナルセックスは罪だとみなされていた)で何度も精神病院や刑務所に収監されており、著書のほとんどは、刑務所などで書いたもの一般に広まったと言えるでしょう。
です。なお、彼の作品の映画化には、著名なパゾリーニ監督の「ソドムの市」がありますが、この映画は背徳的ではあるものの、原作とは全く異なる物です。ただ、この映画があまりに有名なため、サドの小説のタイトルを「ソドムの市」だと勘違いしている人も多くいますが、この邦題は映画のものです。基本的には、サディズムは『オス』の本質として存在すると考えられますから、逢か昔から行われてきた行為です。江戸時代から縄で縛って吊したり水攻めするような拷問はありましたが、それらが多分に性的ニュアンスを持っていたことは、想像に難くありません。むろん、昔から、日本だけでなく、拷問の名を借りたサディズムは世界中で行われており、有名なところでは、中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた「魔女狩り」があります。
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かつて、戦場では略奪強姦はある種の兵士への報酬として一般化していましたから、同様の行為が見られたと思っていいでしょう。ジャンヌ·ダルクは処刑前に陵辱され続けたと言われています。「マゾヒズム」の語源は、やはり同じように、オーストラリアの作家のザッヘル·マゾッホ「レーオボルト·フォン·ザッハー=マゾッホ」に由来します。彼は19世紀半ばの作家で、『毛皮を着たヴィーナス』など、精神的あるいは肉体的な苦痛に快楽を感じる倒錯を描いたことで、「マゾヒズム」の語源となりました。
マゾッホ本人も、情婦であるマニー·ピストールに対して「夫人の奴隷となる」という誓約書を交わしており、生粋のマゾヒストだったようで、『毛皮を着たヴィーナス』は彼の体験談を元にしていると言われます。彼の作品に映画化がないわけではないが、作品に恵まれず、あまり著名なものはないようです。彼本人を題材にした「作家マゾッホ」という映画のほうが有名です。また余談ですが、昔、サドを題材にした「マルキ」という、とても馬鹿馬鹿しい映画がありました。どう馬鹿馬鹿しいかというと、サド侯爵の投獄をリアルっぼく描いてはいるのですが、登場人物が人形なのです。で、チンチ○も人形で、別人格を持っていて、そのチ○チンと会話したり、壁に突っ込んで血まみれにしたりするという、実にイカれた映画です「モデルがイカれてるんだから、当然ですけど」。これはSMに興味のあるみなさんには見て欲しいものですが、DVDにもなっていないようですので、心当たりのある方は、ご一報ください。

現実的なSMの普及
もちろん、彼らの名が元になったというのは、単にその時点で『分類されネーミングされた』というだけの話です。SM行為そのものは、人間に性的好奇心や加虐性などが存在する以上、遥か昔の、紀元前から存在したと見られます。これらの行為を言葉として定義分類したのは、オーストリアの精神医学者リヒャルト·フォン·クラフト=エビングです。彼は異常性欲について、「フェティシズム」、「同性愛」、そして、サドから名前を取った「サディズム」、マゾッホから名前をとった「マゾヒズム」の4つに分類しました。
もちろん、彼の定義には、時代固有の価値観、差別意識が含まれています。現代では、同性愛は精神異常とはみなされませんし、他の3つも軽度なら同様です。彼の定義が正しいわけではありませんが、言葉はそのまま広まり、現在に至ります。日本のSM日本に限った場合、SM的な感覚を、子供に刷り込む役目を果たしたのは、小説や映像媒体でしょう。広い意味では、SM媒体は江戸時代からあるわけですが(浮世絵)、個人的には、そうしたイメージが急速に社会に広まったのは、昭和30年代~40年代あたりではないかと思っています。

大人のエッチな物

それはなぜかといえば、まず雑誌媒体の多様化や、出版量の増加があげられます。
そして、それまで子供のものだったマンガが、学生運動と共に、学生が読むようになってきた点です(まあ、今の若い人には信じられないでしょうが、昔は『学生がマンガ読むなんてけしからん!』という時代があったのですよ。私も、子供の頃は、大人になったらマンガは卒業するものだと思ってましたから)。そのことで、それまでなかった大人の感性を込めた作品が増えてきたこともあるでしょう。最後に日本映画の全盛期から、映像媒体がテレビに移行していったため、テレビの一般家庭への急速な普及期があげられます。
これにより、映像作品の大量生産がはじまります。こうして、多くのメディアにおいて、多数の作品が作られるようになったことで、当然、SM的な刷り込みを喚起するような作品の絶対量も増加し、一般の子供の目に触れやすくなったのではないでしょうか。直接的に成人向けの小説では、やはり団鬼六が有名でしょうが、インターネットもDVDもない昔は、思春期の子供が「大人のエッチな物」に触れるのは、非常にハードルが高いものでした。無修正がネットで見放題な今では信じられないでしょうが、水着のグラビアー枚で中学生が興奮していた時代ですからね。

そうした時代ですから、思春期の子供は、いわゆる「モロに成人向け」のものではなく、様々な『ちょっとエッチだけど、表向きはエッチなものではない』というものからSM的な「ニオイ」を感じ取って、股間を熱くしていたことのほうが、逢かに多いのです。
結局、その頃のきっかけで目覚めて、今に至る、というのが、たいていのパターンですね。我々より、少し上の世代だと、やはり外せないのが、沼正三の伝説の小説「家畜人ヤブー」でしょう(沼正三の正体は諸説あり、様々な説をとなえる人がいるが、確証はなく、現在も不明です)。もっとも、「ヤプー」ははっきりとセクシャルですから、もう少し誤魔化しのきくものでは、山田風太郎の『忍法』シリーズも、やはり目覚めのきっかけになりやすかったようです。横溝正史の小説に漂う、陰惨な雰囲気は和風SMに共通するものがあり、それはむろん、もっとダイレクトに性倒錯寄りの江戸川乱歩の小説と共通のニオイがあります。面白いのは、昭和30年代後半から40年代前半に子供だった世代の、サブカル系の人間の多くが共通して「ウルトラセブン」をあげている点です。
あの、赤いスーツがボンデージと共通の淫廃さを感じるらしく、さらに、あのスーツが締め付けられて、水で濡れてヌラヌラしてるとたまらなかった、なんて話を、たとえばみうらじゅんや大月ケンヂなど、多くの人の談話で読みました。私自身は「ウルトラセブン」は好きですが、そんな風に感じたことはなかったんですが、いやあ、人それぞれ、いろんなところから感じるもんですね。行為の内容プレイとしてのSM、という面から考えると、ある程度、定型的なスタイルが存在します。それらを、少しだけ見てみましょう。
プレイの内容、注意点などは、詳しくは本書の後半で後述します。一般的に日本では、『縛る』「目隠し」という行為がまずあげられます。これは広い意味で『拘束』ということで、「拘束具」も縛る代用として用いられます。